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「嫌われる勇気」ことアドラーの教えのまとめ

「嫌われる勇気」という本を読みました。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

すごい面白い本でした。新鮮な考え方というか。でも、色々と疑問に思ったことも多いので、それは次回にでもまとめます。

とりあえず、備忘録として、簡単な本の内容をまとめました。

 

 

  • 人は変わることができる。人は感情に支配されず、過去の出来事にも支配されることはない。これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない。過去の出来事に囚われて、変われないのだとしたら、自分が「このままのわたし」でいるという楽で安心なことを選んでいるのである。

 

  • すべての悩みは対人関係にある。そして、対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができない。

 

  • さらには、アドラー心理学では他者から承認を得ることを否定する。他者から承認される必要などないのだ。寧ろ、承認を求めてはいけない。我々は他者の期待を満たすために生きているのではない。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになる。

 

  • アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていく。「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題を分離していく必要がある。そして他者の課題には踏み込まないこと。

 

  • あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、或いは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされる。誰の課題かを見分ける方法は、「その選択の結末を引き受けるのは誰か?」を考えればいい。

 

  • 他者の視線が気になる理由は、課題の分離が出来ていない為、他者の課題であるはずのことまで、「自分の課題」だと思い込んでいるからだ。例えば、仕事は社内の人間から気に入られることではない。上司が自分を嫌っている。しかも理不尽な理由によって嫌っている。だとすれば、こちらから擦り寄る必要はない。「あの上司がいるから、仕事が出来ない」と考えるのは完全な原因論だ。真実は「出来ない自分を認めたくないから、嫌な上司をつくり出す」と考える。これが目的論的発想。

 

  • 対人関係のカードは常に自分が握っている。「これは誰の課題なのか?」「結末を引き受けるのは誰か?」を考え、他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学の視点である。

 

  • 幸福とは、貢献感(誰かの役にたっているとうい主観的な感覚)である。「自分は誰かの役にたっている」という主観的な感覚、「貢献感」をもてればそれでいいのだ。人はその時にだけ、自らの価値を実感することだ出来る。しかし、承認欲求によって得られた貢献感には自由がない。幸福は自由あってこそである。

 

  • もし、自分が「普通であることの勇気」を持つことができたなら、世界の見え方は一変する。普通であることは無能であることではない。わざわざ自分の優越性を誇示する必要などないのだ。

 

  • 人生とは「連続する刹那」であり、「いま、ここ」が充実していれば、それでいい。もしも人生が線であるのなら、人生設計も可能だが、人生は点の連続でしかない。よって、計画的な人生など、それが必要か否かという以前に、不可能なのだ。(なので、何か高邁な人生の目標を設定する必要などないし、自己実現的な幸福を追求する必要もない)

 

最後に、僕が一番好きだった一節、「いま、ここ」を生きる重要性を説いたものがこちら。

旅という行為の目的はなんでしょう?たとえばあなたがエジプトに旅をする。このときあなたは、なるべく効率的に、なるべく早くクフ王のピラミッドに到着に、そのまま最短距離で帰ってこようとしますか?

そんなものは旅とは呼べません。家から一歩出た瞬間、それはすでに「旅」であり、目的地に向か移動中のすべての瞬間が「旅」であるはずです。もちろん、なんらかの事情でピラミッドにたどり着けなかったとしても、「旅」をしなかったことにはならない。